阪神・淡路大震災 私の体験記 7
2008/01/24
西宮の実家には7日後にやっと行けました。
盤滝トンネルが一部崩壊しているので、船坂峠を迂回していったのですが、大渋滞で40分で着くところ3時間かかりました。 途中、岡山の従兄弟(伯母さんの息子)とすれ違い、といっても車が動かないので立ち話で、彼も心配で実家の様子を見にきたらしいのです。
私の実家は大丈夫でしたが、近くの伯母さんの家が全壊し実家に非難、甲東園の従姉妹の家も全壊し50mはなれた親戚の家に、それぞれ非難していました。
食事は近くの中学校にパンをもらいにいってるみたいでした。 とりあえず、けがもなく、命が助かってよかったと言ってました。
行くときにいつもタックス兵庫の会議でお世話になっている中華料理の花咲く街角のママに特別にチャーハンを作ってもらい、持って行くと伯母さん達が3時間もたってさめたチャーハンをこんなあたたかい食べ物久しぶりと言って涙ぐんで食べるのです。
お金があっても店が開いてないので一週間、朝、昼、晩 近くの中学校に行ってパンをもらって食べていたそうです。
伯母さんは一階に寝ていたのですが幸い両側にタンスあって隙間に寝ていて助かったそうです。 父が様子を見に行くとまだ寝ていたそうです。
一階から二階を覗くと天井の崩れたところから空がみえました。 無事だったのが奇跡です。
甲東園の従姉妹が家に大事なもがあるので取りに行きたいと言うのでいしょに行くと彼女の家も家全体が30センチずれて二階に寝ていた彼女と一階に寝ていたお母さんとお互い声を掛け合って3時間後に脱出したそうです。
家の周りを指さしながらここも、あすこも埋まって亡くなったと説明していると、車の中に男性が鍵を掛けて外から奥さんがドアを叩いている。
事情を聞くと四国からお父さんの様子を見に来て絶望して「死ぬ」と言っているらしい。
灘区でもネクタイをしたおじさんが渋滞で動かないのに、交通整理のまねをしているのを見かけたが気の弱い人や、優しい人達が精神がおかしくなったんだろう。 何とか話はしたが、こちらもそれどころでないので引き上げた。
盤滝トンネルが一部崩壊しているので、船坂峠を迂回していったのですが、大渋滞で40分で着くところ3時間かかりました。 途中、岡山の従兄弟(伯母さんの息子)とすれ違い、といっても車が動かないので立ち話で、彼も心配で実家の様子を見にきたらしいのです。
私の実家は大丈夫でしたが、近くの伯母さんの家が全壊し実家に非難、甲東園の従姉妹の家も全壊し50mはなれた親戚の家に、それぞれ非難していました。
食事は近くの中学校にパンをもらいにいってるみたいでした。 とりあえず、けがもなく、命が助かってよかったと言ってました。
行くときにいつもタックス兵庫の会議でお世話になっている中華料理の花咲く街角のママに特別にチャーハンを作ってもらい、持って行くと伯母さん達が3時間もたってさめたチャーハンをこんなあたたかい食べ物久しぶりと言って涙ぐんで食べるのです。
お金があっても店が開いてないので一週間、朝、昼、晩 近くの中学校に行ってパンをもらって食べていたそうです。
伯母さんは一階に寝ていたのですが幸い両側にタンスあって隙間に寝ていて助かったそうです。 父が様子を見に行くとまだ寝ていたそうです。
一階から二階を覗くと天井の崩れたところから空がみえました。 無事だったのが奇跡です。
甲東園の従姉妹が家に大事なもがあるので取りに行きたいと言うのでいしょに行くと彼女の家も家全体が30センチずれて二階に寝ていた彼女と一階に寝ていたお母さんとお互い声を掛け合って3時間後に脱出したそうです。
家の周りを指さしながらここも、あすこも埋まって亡くなったと説明していると、車の中に男性が鍵を掛けて外から奥さんがドアを叩いている。
事情を聞くと四国からお父さんの様子を見に来て絶望して「死ぬ」と言っているらしい。
灘区でもネクタイをしたおじさんが渋滞で動かないのに、交通整理のまねをしているのを見かけたが気の弱い人や、優しい人達が精神がおかしくなったんだろう。 何とか話はしたが、こちらもそれどころでないので引き上げた。